大学院留学記 in New York

コロンビア大学の修士課程でメンタルヘルス・カウンセリングを学んでいます。

孤独

前回の投稿からずいぶん間が空いてしまいました。前回のテーマは「学生生活に友達は欠かせない」という内容でしたが、そこから一転、今日のテーマは「孤独」です。

 

1月中旬から二学期が始まりました。一学期は何もかもが初めて、そして英語もまだまだで大変苦労しましたが、今学期は少し余裕が出てきました。しかし…今学期は前学期より孤独感が強まったような気がします。

 

学業に余裕が出て自分の心をより一層感じやすくなったというのもあるでしょうが、なんといっても大きいのが、一学期に仲良くなった台湾人のアンジェラが退学してしまったことでしょう。アンジェラは、米国で発達したカウンセリング手法が自分には合わない、という理由で一学期を終えた時点で退学を決意し、母国に帰ってしまいました。私にとって、米国では唯一心から一緒に笑えるともだちだったのでとてもショックなことでした。

 

アンジェラを失ってしまった悲しみは大きいけれど、今学期は余裕も出てきたことだし、友達作りも頑張りましょう!と活動の幅を広げ、何人かのクラスメイトやクラス外で知り合った人たちとランチなどを頻繁にするようになったのですが、どこか深いレベルでの付き合いが難しいと感じています。

 

友達のほとんどが私よりも7〜8歳ほど若いということもありますが、文化的差異による影響も非常に強いと感じます。私のクラスメイトには数名中国人の留学生がいます。彼女たちとなら同じアジア圏だし意気投合できるかな、と期待しても、なかなかうまくいかないことがあります。

 

移民がその国の文化に馴染んでいく過程を、英語で「Acculturation」と呼びます。移民先の文化・習慣に触れ、行動、思考、食生活、価値観等が徐々に変化していくのです。

 

このAcculturationは人によって進行速度が異なります。何年米国に住んでいても、祖国の文化の中で生きている人もいれば、たった数年でかなり米国の文化・習慣に近づく人もいます。私のAcculturationのレベルは、他の誰とも異なるものなのでしょう。一緒に暮らす夫とも、同時期にニューヨークに渡った同世代・同性の日本人とも、きっと異なります。

 

海外で暮らすことの大変さでもあり、楽しさでもあるのは、Acculturationによって自分の行動、思考、そしてアイデンティティそのものに揺らぎを覚えることなのではないかと、最近思うようになりました。

 

年齢も文化も関係ない、誰でも友達になれる、と言いたいものですが、やはり身体的にも心理的にも大きな差があると実感しています。日本にいたときに感じることができた友達との一体感を得られないのは仕方ないことなのだと私は思っています。

 

焦らずゆっくりと、気の合う仲間を増やしていきたいです。余裕も出てきたことですし、Meetup(ミートアップ)で趣味の合いそうなグループ活動にでも参加してみようと思います。大学にいると、大学内で友達を作りたいと思うのが自然ですが、外の世界に足を踏み出してみたいと思います。

 

学生生活に友達は欠かせない

 私の通っているMental Health Counseling (心理カウンセリング)修士課程にはあまり留学生がいません。留学生といっても、カナダや南アフリカ、インドなど、英語が公用語の国からの人、または高校や学部をすでに米国で過ごしていて、英語は堪能、文化的にもかなりアメリカナイズされている人が大半です。英語があまり上手くなく、所作に母国の面影が残る、いわゆる“留学生らしい留学生”は、主観ですが私しかいないような感じがします。

 

 入学して一ヶ月くらいはけっこう孤独でした。ニューヨークという土地柄なのか、クラスメイトたちは授業の後おしゃべりに興じたりすることなく、さっとどこかへ消えてしまいます。私は英語が流暢でないことも加わって、なかなかクラスメイトに話しかけることができませんでした。大学主催の親睦会に参加しても、会場にかかっている音楽がうるさくて、声の通りが悪い私はしゃべるのにも一苦労で途中退席。勉強大変だね、と声を掛け合う仲間なしに、膨大な課題に追われる毎日は正直さみしかったです。子供の頃は、大人になるとさみしいとか感じなくなるのかな、と思っていたけれど、大人になってもやっぱりさみしいものはさみしいですね。

 

 しかし10月に入ったあたりから、授業の合間にちょっとしたおしゃべりを楽しむ仲間ができました。アンジェラという台湾人の女の子です。彼女はシアトルで数年ファッションを学んだり、イギリスで美術関連の修士号を取得したりという多彩な経験の持ち主です。アンジェラの英語は私よりずっときれいですが、やっぱり言語の壁に悩むことがあるようで、私にとって言語の悩みを共有できる唯一のクラスメイトです。アンジェラとは話すテンポやリアクションなども似ているためか、とても打ち解けて話すことができます。

 

 アンジェラも私も、最初の一ヶ月半は授業についていくのにいっぱいいっぱいでした。課題の多いときなどは二人とも目の下にクマを作り、大丈夫?と互いに気遣い、いつかぱーっと遊びに行きたいねえ、と遠い目をしてつぶやく…そんな日々でしたが、中間テストを乗り越え、やっと二人で遊びに出かけることができました。

 

 私の友達は皆日本にいるため、考えてみればこうして友達と気軽に遊びに出かけるのはとても久しぶりです。一緒にミッドタウンのカツハマでトンカツ定食を食べた後、アンジェラに中華街を案内してもらいました。今まで何度も中華街に行ったことはありますが、どうも自分がよそ者に感じられて馴染むことができませんでした。けれどアンジェラにオススメのケーキ屋さんや中国茶カフェを案内してもらい、中国系スーパーでアンジェラお目当ての空芯菜を選んだりしているうちに、今までになく堂々と楽しんでいる自分に気が付きました。友だちの力は偉大です。

 

 大学においても同様に、友だちの力は偉大だと感じます。友だちができるまでは、自分の大学なのにどうも大学の一員になれていないような気がすることがありましたが、仲間が増えた今は自分の居場所だと自信がもてるようになりました。しみじみと学生生活が楽しいです。

 

 アンジェラとは、今度は台湾の火鍋を食べに行こうと次の約束もしています。楽しみでなりません。大人になっても、誰かと知り合って、親しくなっていくのは楽しいものですね。

中間テストの準備をしながら気が付いたこと

 先週、中間テストを受けました。大学院レベルの、しかも米国でのテストは初めてです。どの程度準備すればいいのか見当がつかず、とにかく一生懸命に勉強しました。

 

 今回受けた科目は、Ethics(カウンセラーとしての職業倫理)、Career Counseling(職業関連の心理とカウンセリング)と Theory of Counseling(カウンセリング・心理学の学説)の3つです。たった3つだけだと簡単に考えていましたが、出題範囲が広く、また課題文献も膨大なため、テスト一週間前にはてんてこまいです。食事の時間が惜しいほどでした。

 

 今回テスト勉強に没頭して気がついたこと。まず学部生時代に比べて集中力がものすごくアップしているということ。何時間でも机に向かうことができて、食事を忘れるほどでした。受験生のときや学部生のときは、机に向かっていてもつい他のことを考えてしまって集中できないことや、とにかく眠くなって昼寝してしまう、ということが多々ありましたが、今回はそういうことがほとんどありませんでした。これほどの集中力がついた理由は、勤めた経験があるからではないかと思っています。学生の頃は静かな、落ち着いた環境で勉強することができますが、社会人になるとそんな落ち着いた環境が提供されることはほとんどありません。やらなきゃならない作業があっても、電話が鳴る、上司や先輩に他の仕事を頼まれる、後輩に質問される…といろいろなことが同時進行します。今回勉強をしながら、自分のやりたい作業を、自分のやりたいように、そして誰にも邪魔をされずに没頭できるってなんて幸せだろう!と感動してしまいました。よく若い頃の方が体力も記憶力もあるから勉強には適しているといわれますが、年齢を重ねることで得た経験はそれを補って余りあるように感じられました。

 

 そしてもう一つ気が付いたこと。どんなに勉強しても辛くなることがありませんでした。肩が凝ったり、目が疲れたりという身体的な“辛い”はありましたが、もう勉強したくないとか、やっててつまらない、と感じるようなことは皆無でした。私の通っていた東京大学では、1. 2年生の頃は教養学部に全員が配属され、文理問わず幅広く履修することが求められました。興味のない科目のテスト勉強ではもう本当にげんなりしていた記憶があります。そして3. 4年生では国際関係論を専攻して、それなりに興味はあったものの、テスト勉強となるとやっぱりどんより。そして勉強しながらふと、これをやって私の将来に何の意味があるだろう…と虚無感に襲われることもありました。しかし今回は、どんなに勉強してもワクワク感が消えることはありませんでした。それはやっぱり、本当にやりたいことを見つけられたからだと思います。どの科目も、将来私がカウンセラーになる上で役に立ちます。勉強をしているとき、未来のクライアントさんを思い浮かべるよう心がけていました。クライアントさんに質問されたらどんなふうに分かりやすく説明できるだろう…、こんなことがカウンセリング中に起きたらどう対応しよう…と具体的に想像しながら勉強すると、楽しい上に知識の定着も良いように感じました。

 

 テスト勉強で体は疲れましたし、夫を放置してしまって申し訳ない気持ちになりましたが、これほど楽しく勉強できることに気が付いて、とても幸せでした。自分のやりたいことに出会えるまで回り道してしまった私ですが、これほど幸せを感じられるのは回り道をしたおかげでもあります。今、何がやりたいのか分からなくて途方に暮れている人、毎日会社で仕事をしていても虚無感を感じている人に、そんな時期もきっと無駄にはならないとお伝えしたい気持ちです。

教室がとにかく寒い

 今日は最高気温29度の暖かい一日でした。半袖で出歩ける陽気です。

 

 けれどそんな日にはアメリカではちょっと注意も必要です。なぜなら暖かい日にはガンガンにクーラーをかけるためです。

 

 レストランはもちろん、電車やバス、そして教室の中もすごく寒い。

 

 今日の授業中もガタガタと震えるほどの寒さ。こうなることを予想して、私は夏日にもカーディガンとユニクロのライト・ダウン・ジャケットをいつも持ち歩くようにしています。そのためいつも大荷物です。

 

 アメリカ人との体感温度の違いにはいつも閉口してしまいます。私がカーディガンとダウンを羽織ってぶるぶるしている傍ら、かなり露出の多いペラペラのワンピース一枚の学生や、ヘソ出しTシャツにホットパンツという出で立ちの学生もいます。一体どういうことなのでしょうか。

 

 夏になるとスカートやワンピースで出かけたくなるものですが、私はニューヨークに暮らすようになってからというもの、夏でもズボンを履いていることがほとんどです。たまに思い切ってスカートやワンピースで出かけると、寒さにやられて体調を崩してしまいます。夫と映画館に行くなどはおしゃれをしたいのですが、映画館の寒さは一段ときついのでいつもジーンズ。

 

 露出を楽しめる同級生たちが羨ましいです。

傷つきやすくなってくれてありがとう?!

 私がいるCounseling Psychology(カウンセリング・サイコロジー)プログラムの授業では、次の表現をよく耳にします。

 

“Thank you for being vulnerable.”

 

 辞書によれば、 “vulnerable”は「(人・体・感情などが)傷つきやすい、もろい、脆弱、弱い」という意味の形容詞です。上記の表現を直訳すれば「傷つきやすくなってくれてありがとう」といったところですが、なんだかすごく変な感じ…。

 

 どんなときにこの表現が使われるのでしょうか。たとえば今日の授業中でのこと。差別問題について教授が話していた際、黒人の女子生徒が手を挙げて、小学校の頃に肌の色によって差別を受けたときに話をし始めました。彼女はその当時感じた怒りや悲しみ、そしてその出来事が現在の自分にどのような影響を与えたかを赤裸々に語りました。その話に静かに耳を傾けていた教授は、感慨深そうに頷きながら、 “Thank you for being vulnerable.” と言ったのです。

 

 この表現、人が心の奥底しまっていた深い感情や体験を他の人と共有した際に、「そんなに大切なものを共有してくれてありがとう」の意を込めて使われるようです。

 

 自分の中にしまっておきたい感情や経験を人前にさらすというのは、犬が仰向けになってお腹を見せる行為に似ています。ひと噛みされたら絶対絶命の、弱くもろい部分を相手の目の前に差し出すことになるのです。そんな勇気のある行為に、そして聞き手を信頼してくれたことに、ありがとう、ということなのでしょう。

 

弱い部分をさらけ出す

 

 カウンセリングでは、クライアントが一番弱い部分をカウンセラーに見せる、ということに大きな重要性があります。一つ目の理由は、カウンセラーはクライアントの心理的問題を解決するために、心の一番奥の奥まで掘り下げて、どこに改善すべき課題があるのかを把握する必要があるから。そしてもう一つの理由は、恐る恐る一番もろい部分をさらけ出したとき、カウンセラーがその全てをあるがままに受け入れてくれた、という経験が、良い人間関係を築いていく練習になるためです。

 

 多くの大人は一番もろい部分をさらすことがとても苦手です。それは大人になるまでの過程に、もろい部分をさらけ出してみたら思い切りその部分を噛みつかれてしまった、という経験をしてきているためです。噛み付いてきたのは家族のことも、友達のことも、恋人のこともあったでしょう。そのような経験を繰り返していくと、次第にもうひどく傷つかなくて済むように一番弱い部分を隠すようになってしまうのです。

 

 確かに脆弱な部分をさらすことは危険なことでもあり、そこを攻撃してくるような人からはなんとしてでも守らなければなりません。しかし、犬がお腹を見せ合って信頼していることを表現するように、人間も一番大切な人との信頼を築くためにはガードを解いて傷つきやすい部分を見せ合う必要があるのです。

 

 最も大切な人に弱い部分を見せて信頼や愛情を深めていく。その練習にカウンセリングという場は大変適しています。カウンセリングは、人間の弱い部分を批判したり、攻撃するのではなく、それをむしろ慈しみ、そしてさらけ出してくれた勇気に深く感謝をする場です。そこでカウンセラーと信頼を築いていくことで、カウンセリングの外でも良好な人間関係が築けるようになるのです。

 

弱さを見せてくれて、本当にありがとう

 

 弱い部分をさらけ出すのは想像以上に難しく、苦しいことです。いざそれを口にしようとすると、「こんなこと知られたら嫌われるんじゃないか」「軽蔑されるんじゃないか」という不安が渦巻いて、言葉にできなくなってしまいます。また自分のもろさから目を背け続けて、いつのまにか自分自身の弱さがどこにあるのか分からなくなってしまっている人もいるでしょう。

 

 だからこそ、誰かが私にもろさをさらけ出してくれたときには、その勇気に心から感謝したいです。

 

“Thank you for being vulnerable.”

 

 最初は変な表現と思っていましたが、今では心の中でつぶやくだけで、胸がほっこりと温かくなるように感じます。

宿題に追われる

 昨日はCareer Development and Counselingという職業に出席。そして今日はTheories of Counseling という、カウンセリングの諸学説について学ぶ授業と、Foundation of Counseling というカウンセリングのスキルを学ぶ演習に出てきました。

 

 これでやっと履修した全科目の第一週目を終えました。

 

 どの授業も私が学びたいと思っていたものド真ん中、という感じで、次の授業が楽しみでなりません。

 

 一方で不安も。宿題が多すぎる……。米国の大学ではたとえ学部でも宿題の量が多いというのはよく聞きます。まして修士課程なら宿題が多くて当然です。もちろん覚悟はしていたのですが、こうして第一週目の授業を全て終えてみて、全ての授業の宿題をリストアップしてみると改めて驚いてしまいます。計画を立てて期限に間に合わせるのは比較的上手い方と思っていたのですが、どう考えても時間がオーバーしてしまう場合はどうしたものかと悩み中です。

 

 けれど会社で働いていたときには期限に間に合せられないという選択肢が基本的になかったはずで、その中でなんとかやってきたのだから、まあなんとかなるでしょう、と気持ちを落ち着けようとしています。

 

 また窮地に立たされたとき、私の中にどんな感情が湧き出てくるかを観察するのは、カウンセラーを志す者としては少し楽しみでもあります(あんまり苦しい想いはしたくないけれど)。人間が何かの刺激を受けたときに抱く感情は、5歳くらいの年齢に達するまでに経験した感情の再現だと言われています。つまり、たとえば宿題に追われて絶望感に襲われたとしたら、その絶望感と同じような感情を5歳になるまでのどこかで経験しているはずなのです。幼少期にどのような感情を経験したかは人それぞれなので、したがって同じような状況下でもそれにどう反応するかは十人十色。私は宿題の提出期限に間に合わなくなったとき、どんな感情を味わうのでしょう。その感情をじっくりと観察することで、私の脆弱性や心の癖といったものが露わになり、カウンセラーになる上で改善しなければならない課題が見つかるはずです。

 

 なので……たとえどんなに辛い状況になっても大丈夫、と自分に言い聞かせて、今晩はとにかくゆっくり眠ろうと思います。

初授業

 9月7日には初めての授業に出席しました。 “Professional and Ethical Issues in Psychological Couseling”という、カウンセラーとしての倫理を学ぶ授業です。

 

 担当のFraga教授は開口一番に、

「みんな倫理なんて “Sacks!” って思っているでしょう?でも今学期が終わる頃にはこの授業が最も大切で、一番楽しい授業だったってきっと思えるわよ。」

 と言いました。

 

 私も確かに「倫理か〜、つまらなそう」と思っていました。そしてこの授業の指定教科書が180ドルもすることに不満を抱えていました。しかし早速教授からそんな気持ちを吹き飛ばす質問。

 

 「もしあなたのクライアントさんが失業して、受診料を払えなくなったとき、あなたはどうする?」

 

 これはきつい質問です。どうしましょう。クライアントさんは失業をしてしまって精神的に大ダメージを受けているはず。そもそもカウンセリングに来ているということは、失業する以前から何かしらのストレスや不安がありはずで、そこに追い打ちをかけるように失業という要素も加わり、本当に辛い状況にちがいありません。その人の顔をまっすぐにみて、「受診料が払えないのでしたら、次週からお会いすることはできません」と言うシーンを想像してみただけで、辛くなって胃がきゅっとしてしまいます。かといって、「失業中は受診料をお支払いいただかなくて構いません」と言っていいでしょうか。たとえば不景気で他のクライアントさんもみんな失業してしまったとき、公平にするために全員を無料で診療したら、カウンセラーの生活が立ち行かなくなります。

 

 こうした状況にどう対処するかはカウンセラー次第なので、おそらく正解はないのでしょう。しかしこうした状況に自分が陥ったらどうするかということを、カウンセラーとしてやっていいこと、いけないことを頭に入れた上で、学生のうちからしっかりと考えることはとても大切です。

 

 教授は、カウンセラーとして直面し得る困難な状況に真剣に向き合っていくために、授業で指定された読書課題は完璧にこなし、学生のうちにできる限りのことを全てしなければならい、と強調しました。

 

 「ここは学部ではありません。卒業してから、どの仕事に就こうかな〜と模索する学部生とは違うのです。あなたたちはカウンセラーになることを決意して入ってきたのだから、そのために必要なことはすべて全力でしなければなりません。」

 

 カウンセラーとして現在も活躍されている教授からは、学生たちに良いカウンセラーになってほしい、という熱意が溢れているように感じられ、この先生のもとで頑張ろうというやる気がかきたてられます。

 

 そして教授からもう一つアドバイス

 

 「クラスの中で友達を作りなさい。」

 

 カウンセラーは客観性を保つために、家族や友達、同僚などへのカウンセリングは行いません。たとえば歯医者であれば、家族や友達の診療を進んでするでしょうが、カウンセラーはこうした近しい間柄への診療ができないため、クライアントを獲得するのが難しいのです。そのため教授は、このクラスメイト間で将来クライアントを紹介し合うことが仕事を得る上で非常に重要だと言うのです。

 

 学部時代、学問と私の日常生活は切り離されていたような感覚を持っていましたが、大学院では、特に私の専攻がカウンセリングという仕事直結型の分野だけに、常に実際に自分がその現場に直面したらどうするかという視点を忘れないようにしなければなりません。また友達付き合いも、大学生活を楽しむために大切にするのはもちろんのことですが、将来の同僚として支え合う意識も大切なのだと実感しました。

 

 大学でいかに学んだかということが今後の生活に直接結びつくというのは、ちょっと背筋が伸びるような感じもしますが、私にとってはとても嬉しいことでもあります。学部時代に期末試験前に、教科書や論文を読んだり、レポートを書いたりしながらふとしたときに、こんなことして何の意味があるのだろう……と思うことがあり、その違和感を拭えないままとにかく課題をこなすのはとても辛かったからです。

 

 一回目の授業を終えることには、教科書代180ドルも惜しくないように思えてきした。